住所;長野県飯田市追手町 アクセス;JR飯田線飯田駅〜徒歩 飯田城の歴史は、信濃守護職小笠原貞宗の三男宗満が飯田郷の地頭職を賜り、飯田三本杉に館を構えての坂西(ばんざい)を名乗ったことにより始まったとされています。15世紀初めに宗満の子坂西由政が愛宕社へ移し飯田城と称しました。それは、今からすでに800年近く前のことで、当時は規模も小さく、現在の天空の城ホテル(三宜亭)付近の一部分であったようです。 その後、戦国時代には武田・織田・豊臣・徳川と、4大群雄の支配に翻弄され、領主が目まぐるしく代わりましたが、ここでは詳細を省きます。飯田市のホームページなどをご参照下さい。 江戸時代に入ると、慶長6年(1601)まず小笠原秀政が5万石で入封し、元和3年(1617)には脇坂安元が同じ5万石で入封。その養子安政まで2代55年の間、飯田城下の拡大整備に努め、寛文12年(1672)には堀親昌が2万石で入封。その後、明治の廃藩置県まで12代にわたって堀氏藩主時代が続きました。(飯田市HPより) 飯田市有形文化財(建造物) 旧飯田城の八間門 平成10年11月27日指定:羽根庄(木下家)の門は、明治4年(1871)に飯田城から払い下げを受け移築した門です。元は二の丸入口にあった門で二の門と呼ばれていました。2階建ての3間1戸の櫓門で、左右に4間ずつの長屋があるので八間門と呼ばれています。 1階の部分は、文禄年間(1592〜1596)の築造と推定されます。以前は両側に石垣があり、枡形を形成していた門と考えられますが、柱を一度取り替え、扉口の幅を広げています。 2階の部分は江戸時代前期の建築と推定され、間口5間、奥行き3間、扉口より全面に張り出し、厚板がはめられ石落としが設けてあります。切妻造りで鬼瓦、懸魚などがあり、国の重要美術品に指定されています。(現地案内板より) (写真上)二の丸御門 (写真左下)市立図書館脇の桜丸御門(通称 赤門) (写真右下)本丸跡の柳田國男記念館庭園 私的満足度「★★」:飯田駅から豊橋方面に4駅、伊那八幡駅近くの木下家に移築されている二の丸御門(八間門)。木下家は藩主の主治医だったとか。 |