所在地:福井県福井市宝永 アクセス:JR「福井駅」〜徒歩 形式・作庭:回遊式林泉庭園 文化財:国指定名勝 養浩館庭園<ようこうかんていえん>は、旧福井藩主松平家の別邸で、江戸時代には「御泉水屋敷<おせんすいやしき>」と呼ばれていました。「養浩館」の名称は、松平春嶽が明治になってから名づけたものです。養浩館玄関に掲げられていた『養浩館記』(由利公正<ゆりこうせい>筆、明治24年)にもその名が見えます。 養浩館庭園は、福井城本丸の北約400mに位置し、外堀に面した場所にあります。越前藩2代忠直<ただなお>に誅伐された重臣永見右衛門<ながみうえもん>の屋敷地であったところとされ、3代忠昌<ただまさ>時代に藩邸となり、芝原上水を引き入れた御泉水屋敷となりました。 現在の規模の建物と回遊式林泉庭園<かいゆうしきりんせんていえん>が完成を見たのは元禄12年(1699)で、7代吉品<よしのり>(当時は昌明)の命によるものでした。その規模は、東西85間・南北45間あったとされています。宝永5年(1708)、吉品が隠居に備えて、庭園に接した用地に広大な居館を建設したことから、その規模は東西126間・南北45間に拡大されます。吉品没後は、藩主側室やその子女の住居になったり、藩の迎賓館などに用いられていました。なお御泉水屋敷の規模は、享保11年に(1726)には再び縮小されています。 近代になり、明治11年に松平家の提供によって屋敷地の一角に宝永小学校が建設されたり、昭和22年の同校移転後には、その跡地に市営テニスコートなどが設けられたりしました。 養浩館庭園は、書院建築と回遊式林泉庭園によって江戸中期を代表する名園の一つとして広く知られ、学術的にも高い評価を受けていました。しかし、昭和20年7月19日の福井大空襲で建物が焼失し、庭園もその後の復興計画で一部が市道になってしまいました。 その後昭和57年に、庭園が国の名勝に指定されたことが契機となって、建造物と庭園の復元事業がはじまりました。文政6年(1823)の『御泉水指図』に基づく学術的な検討により、復元工事は行われ、見事に往時の姿がよみがえりました。(養浩館HPより) 私的満足度「★★」:お城から歩いてすぐです。水の使い方が良いですね。綺麗でした。 |