18福井県 藤島神社



所在地:福井県福井市毛矢3-8-21

アクセス:福井駅~バス

文化財:冑、太刀、等

新田義貞公は清和源氏の流れで、八幡太郎義家から10代目の子孫に当たります。

代々関東の上野(こうずけ)国(群馬県)の新田郡に住んでましたので、新田氏を称し、義貞公は新田氏の嫡男として生まれました。

後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうと二度目の計画をされた元弘の変(1331)後、新田義貞公は、元弘3年(1333)密かに朝廷の命を受けて5月鎌倉に攻め入り、遂に22日執権北条高時の鎌倉幕府を滅しました。

この日を記念しまして藤島神社では、毎年記念祭を斎行いたしております。

鎌倉幕府が滅亡してから後、いわゆる後醍醐天皇の建武中興の政治が始まりますが、この時足利利尊氏が天皇に謀叛を起し、南北朝の動乱の時代となりましたが、新田義貞公は盡忠報国の精神を以て後醍醐天皇に尽くされ、楠木正公が湊川で戦死された後も、形勢不利の中を延元元年(1336)、天皇の皇子恒良・尊良両親王を奉じて敦賀の金ケ崎に籠城され、翌年3月金ケ崎落城と共に、杣山へ、更に延元3年(1338)足利軍と福井平野で奮闘中、閏(うるう)7月2日灯明寺畷(新田塚)の戦で壮烈なる戦死を遂げられたのであります。

御年38歳でありました。この閏7月2日を太陽暦に換算しますと、8月25日になりますのでこの日を藤島神社の例大祭と定め、毎年厳粛なる祭典が盛大に行われております。

この新田義貞公戦死の地から明暦年間(1655~57)、義貞公の兜が発見されましたので、福井藩松平光通候は萬治3年(1660)そこに「新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建立されました。これが国の史蹟として指定されている「史蹟灯明寺畷」(新田塚)であります。(藤島神社HPより)

私的満足度「★★」:結構階段があり、「ふうふう」言いながら参拝しました。


 
 

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