住所;白山市鶴来朝日町81番地
アクセス;JR鶴来駅〜徒歩
文化財:
築城時期・築城主体ともに不明。『加賀古跡考』には金剣宮の衆徒が要害として築き、その後 加賀の一向一揆が拠点としたとも。また源平の争乱時、林六郎光明が居住したとも。『越登賀三州志』によると長享年間(1487−88年)頃、坪坂平九郎が居住し、のちに若林長門守が拠ったが天正8(1580)年、佐久間盛政が謀って若林長門を殺害し、舟岡山城を奪ったとされます。坪坂平九郎は永禄年間(1558−70年)から天正年間(1573−92年)初期頃の文書に、本願寺から金沢御堂に派遣された坊官として坪坂伯耆入道の名が見え、また『信長公記』には天正8(1580)年、柴田勝家から安土の織田信長のもとへ送られた一向一揆の指導者の首の中に坪坂新五郎の名が見えていることから、この一族と思われます。天正元(1573)年、越前朝倉氏が滅亡すると越前は織田氏の勢力下に置かれましたが、一向一揆が次第に勢力を拡大し織田勢力を圧迫します。このため同3(1575)年、信長は越前に出陣し一向一揆勢力を加賀に駆逐し、この際 若林長門も越前から逃れ舟岡山城に入城したと推測されます。そして若林長門は金沢御堂の指導のもと舟岡山城を改修し、山内衆とともに舟岡山城を守備しました。同8(1580)年、金沢御堂が陥落すると一向一揆勢力は鳥越城を拠点に織田勢と徹底抗戦し、手取谷の谷口に位置する舟岡山城は織田勢に対する前線基地となります。同年10月、粟生に陣を敷いた柴田勝家は若林長門からの和議申し入れに同意するようにみせかけ、長門を粟生の陣に誘い込み謀殺しました。加賀一向一揆制圧後、舟岡山城は織田方の属城として同11(1583)年には丹羽長秀の家臣早谷五左衛門が在城し、同13(1585)年 加賀国河北・石川郡が前田利家領になると家臣高畠石見守が舟岡山城に配されたと伝えられます。(現地案内板より)
私的満足度「★」:藪をかき分けて登れば野面積の石垣が見られるようですが、登り口周辺の撮影で我慢し登城断念。
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