住所;新潟県南蒲原郡田上町大字田上 アクセス;信越本線羽生田駅〜タクシー 様式、作庭:枯山水、広瀬万次郎 文化財:町文化財 街中を通る国道403号線沿いに,重厚なたたずまいを見せる椿寿荘は,昭和六十二年(1987)十月に,田上町の文化財に指定されている。屋敷を囲む土塀は,明らかに周りの建物と趣が異なり,大正期の豪農文化を物語る。 庭園は京風の枯山水。京都の庭師・広瀬万次郎の手になるもので,自然の樹相を生かして深山幽谷を表現している。庭の奥に置かれた五重塔は須弥山を表現している。仏教色が色濃く反映された庭園に立つと,今でも厳かな雰囲気に包まれる。春は,上段の間の書院の明かり障子を開け,朱に染まった鮮やかなツツジに包まれる五重塔を望み,夏は,奥座敷の下を流れる清流を眺め,涼を求める。秋には,紅葉の梢越しに高床の奥次の間と庭園との美しい対比を眺め,冬は,雪をまとう屋敷の姿にしみじみと心を打たれる。四季それぞれに豊かな表情で人々の心をたのしませてくれる景色。この風景は今も昔も変わらない。 田上町で明治から大正時代にかけて栄えた,田巻姓を名乗る二軒の豪農。彼らはそれぞれ代々七郎兵衛,三郎兵衛を名乗り,地元では七郎兵衛家を「原田巻家」,三郎兵衛家を「本田巻家」と呼びならわしていた。幕末期には,原田巻家がおよそ千二百六十町歩,本田巻家がおよそ七百町歩もの広大な土地を所有していたという。 原田巻家七代・堅太郎が建てた離れ座敷,椿寿荘。三年半の歳月と七万二千円余りの巨費を投じて,大正七年(1918)に完成した。地主の権力・財力を誇示せんと,贅を尽くした屋敷である。 屋敷の建坪はおよそ百四十坪,屋敷は約八百八十坪の広さを誇る。建築にあたったのは,当時,日本三大名工といわれた富山県井波町の宮大工棟梁の松井角平。釘を一本も使用しない寺院様式で,材木には,吉野杉,木曽桧,会津欅など,日本中の銘木が集められた。土縁の庇の丸桁には,長さ二十メートル余りの節の無い吉野杉を使用。大阪から新潟まで海上を,さらに信濃川をさかのぼらせて運んだという。また,瓦は越前瓦,玄関や風呂場には水戸産の御影石と,最高の材料が選ばれた。楠の一枚板に菊の透かし彫りを施した欄間も見事である。 中国では古来,「椿」は不老長寿の木として選ばれ,長寿・長命を表す言葉として用いられてきた。椿寿荘を建てた田巻堅太郎はこの離れ座敷をいつまでも後世に残るよう念願して,「椿寿荘」と命名したのだといわれている。(田上町HPより) 私的満足度「★★」:田巻さんが相続税を払うために物納したものを国鉄が買い上げ、一時保養所にしようしていたそうです。国鉄民営化に伴い町の持ち物になったとのこと。建物の細工が立派でした。 |