住所;南魚沼市六日町坂戸 アクセス;JRJR上越線六日町駅〜徒歩 上田荘は越後から三国峠を越えて関東へ通ずる街道上にあり、古代から軍事上重要な根拠地であった。坂戸城は、上田荘が一望出来る要衝の地であり、南北朝の動乱時代、南朝方の新田一族によって築かれたと伝えられる。室町時代初期、上杉氏が守護になると、家臣の守護代長尾氏(上田長尾氏)が坂戸城を本拠地にして勢力を伸ばし上田荘(南魚沼地方)を治めるようになった。 16世紀初頭、越後国内が戦国の動乱期に入り、坂戸城は長尾景房により本格的な築城が始まった。 天文17年(1548)、長尾景虎(後の上杉謙信)が晴景に代って春日山城主になると、翌18年(1549)長尾政景は景虎(謙信)に背いたが、天文20年(1550)景虎に無条件降伏した。その後は、政景は景虎(謙信)の家臣としてよく働いた。 永禄7年(1564)、政景と宇佐美定満が野尻池で舟遊び中、酒に酔って溺死するという事件が起こった。謙信は、このことを聞いて悲しみにくれたという。しかし、謙信は政景の存在が危険であると考え、宇佐美に討たせたのではないかという説がある。この事件の後、政景の子景勝は謙信の養子になった。 天正6年(1578)、謙信が急逝し、「御館の乱(1578〜80)」で景勝が勝利し越後国主になると、坂戸城は近隣武将の番城とされ、領国経営の要所となった。 慶長3年(1598)景勝が会津若松城に移封になると、 春日山城には越前から堀秀治が入った。秀治は又従弟の堀直竒を坂戸城主2万石に命じた。 この時、直竒により城は大修築され、石垣などが築かれたが、慶長15年(1610)直竒が信濃飯山城4万石に移封となり、坂戸城は廃城となった。(現地掲示板等より) 私的満足度「★」:山頂の本丸までは徒歩1時間程度なので当然登りません。麓の家臣住居跡地と内堀跡のみの見学です。 |