住所;新潟県新潟市江南区沢海 アクセス;JR新潟駅〜バス 様式・作庭:回遊式庭園、田中泰阿弥 文化財:国の登録有形文化財 北方文化博物館は越後の大地主伊藤文吉氏の旧日本邸で明治15年から22年まで8年の歳月をかけて造られたもので、敷地8,800坪(29,200平方メートル)建坪1,200坪(3,900平方メートル)部屋数65の純日本式住居でその広大な施設は静寂な環境の中にある。まわりには、土塁を築き塀を建て、濠をめぐらし、土蔵造りの門、総けやき造り唐破風の大玄関など、まさに「豪農の館」と呼ぶにふさわしい豪壮さを備えている。(にいがた観光ナビHPより) 越後の蒲原平野には信濃川と阿賀野川の大河があり、阿賀野川沿いの横越町(現新潟市)にある戸数三百余りの集落を「沢海(そうみ)」といいいます。ここ沢海の歴史は古く江戸時代の初期、慶長15年(1610年)から77年間は沢海城という城があり、11,000石のささやかな城下町として栄えていたと伝えられています。沢海城の築城以前は囲いの堤もなく、洪水の際には一面が水に押し流され、水が引き落ちても窪地に水がたまり、沢のようになるので「沢海」と名付けられたと言われています。 その後、沢海は天領となり、代官所、続いて旗本小浜の知行所が置かれていましたが、明治2年(1870年)に藩籍奉還となり、武家による社会は終わりを告げました。このような歴史の中、江戸時代中期、農から身を起こし、やがて豪農への道を歩み、代を重ねて巨万の富を築いていった一族が伊藤家です。全盛期には、1市4郡60数ヶ町村に田畑1,370町歩(1,372ha)を所有し、越後随一の大地主として、その名は県下に鳴り響いていましたが、農地解放により広大な農地は伊藤家の所有を離れることになります。この伊藤家の屋敷と住宅が、現在の北方文化博物館で、別名「豪農の館」と呼ばれています。現在では、かつてのお城も代官所も、小浜時代の知行所も跡形もなく、ただ、かつて豪農の館、伊藤家だけが、昔の面影そのままに、数々の歴史を秘めて残っています。(北方文化博物館HPより) 私的満足度「★★★」:建物も凄いんですが、大広間からみた庭園が素晴らしいです。私は新潟駅から路線バスで来たのですが、団体の観光バスが何台も来ていました。 |