住所:佐渡市阿仏坊1
アクセス:両津港〜バス
文化財:
雑太城(さわだじょう)の別称で、江戸時代に生まれた呼称であろう。名称の由来は、正中の変で佐渡へ流され、雑太城主本間山城入道に預けられていた日野中納言資朝が、つれづれのままに城外に出て、「秋たけし檀の梢吹く風に、雑太の里は紅葉しにけり」と、詠んだ歌からつけられたと伝えられている。『太平記』の中では、資朝を預った「その国の守護本間山城入道」の居所を、「本間の館」と記しており、これが通称「檀風城」と呼ばれる城館である。今「檀風城址」と呼ばれている場所は、竹田川に向って突き出た低位段丘先端部の一画を占め、周囲には土塁が残り、南端を空堀で切られている、一ヘクタール足らずの居館址である。中世初期の居館は、このような割合低い地に、単郭築造されているのが普通で、鎌倉末から南北朝期にかけては、やや高い丘陵に館を設け、後方山地に山城を築くようになる。戦国期に入れば、さらに高い段丘上に移り数郭を揃えた広大なものとなり、周辺に小支城を配するといった形態に変わる。近年、檀風城の東方約一キロメートルの一段高い段丘先端部に、檀風城とほぼ同じ規模で残る竹田城(通称「又助の城」)を、雑太城(守護代居城)とみる説が出ている。それは鎌倉時代末に、阿仏坊を新保より城の傍へ呼び寄せた本間泰昌の城跡とみることと、この段丘下の竹田川辺に、日野公斬首の伝説が残ることからであろう。ここも単郭で周囲に土塁が残り、郭の三方に空堀がめぐらされている。日野資朝や阿新丸に関する遺跡は、果してどちらの城であろうか。(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
私的満足度「★★」:ここ妙宣寺は重文指定の五重塔を見ることを目的に訪問。したところ、城跡でもあり、庭園も結構綺麗といった具合に喜びが増しました。
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