13東京都 隅田川七福神

 三囲神社
 
 



隅田川七福神は、佐藤菊塢や、百花園に集う江戸後期の文人達により選ばれたが、これを庶民の間に流行させたのは、明治31年(1898年)頃に結成された隅田川七福会でした。

『時事新報』の記事には、明治32年1月、七福会により途絶えていた隅田川七福神参りが再開されたと記されています。

 また、明治41年(1908年)に北村霊南らの手で建てられた隅田川七福神の石碑には、榎本武揚ら著名な政治家たちが揮毫し、七福会に強力な政治的支援が寄せられていたことがわかります。

この後、明治44年頃には、七福会により巡拝路の整備が急速に進められました。(隅田川七福神HPより)

三囲神社(恵比寿・大國神)(みめぐりじんじゃ)

その昔、弘法大師が創建したのがはじまりと伝えられています。三囲神社の名前は、南北朝時代の頃、近江三井寺の僧がこの地を訪れた際、社地から壷を見つけ出しました。その壷を開けてみると、中から白狐にまたがった御神体が現れたと同時に、さらにはどこからか白狐が現れ、その御神体の廻りを3度廻ったことに由来しています。

 

弘福寺(布袋尊)(こうふくじ)

インゲン豆を日本に伝えた高僧隠元が、京都黄檗の地に黄檗山満福寺を開き、その末寺として、この地に開寺されました。

 

長命寺(弁財天)(ちょうめいじ)

比叡山延暦寺の末寺。その昔は常泉寺という名でしたが、徳川三代将軍徳川家光が、この地で鷹狩をしていた際に突然の腹痛に襲われ、この常泉寺でしばし休息しました。その際、この常泉寺の井戸水で薬をつかったところたちまち回復したため、寺の名前を長命寺へ改称したと伝えられています。

向島百花園(福禄寿)(むこうじまひゃっかえん)

江戸時代文化の爛熟期である文化・文政年間(1804~1830)に、日本橋で骨董を商っていた佐原鞠塢が、親交親しい文人たちの協力を得て造った名園です。園名は「四季の花が多く咲き乱れる」に由来しており、その名のとおり、春夏秋冬いつ訪れても、名花を鑑賞することができます。

昭和53年、文化財保護法により名勝・史跡に指定された園内には、江戸時代の文人たちの碑もまた多く残されています。

白鬚神社(寿老神)白鬚神社(しらひげじんじゃ)

天暦5年(951)に、慈恵大師が関東に下った際、近江国比良山の白鬚大明神の御分霊を祀ったのがこの白鬚神社です。敷地内には、徳川幕末の騒乱期に、老中阿部正弘から知識の鋭さをもって目付に抜擢された岩瀬鴎所の墓碑や、隅田川の風物を詠んだ墨多三絶之碑などがあります。

多聞寺(毘沙門天)(たもんじ)

天徳年間(957~960)に創建され、弘法大師作と伝えられる毘沙門天を本尊としています。寺内には、墨田区登録文化財にも指定されている六地蔵坐像や、毘沙門天によって成敗された2匹の妖怪狸を供養した狸塚などがあります。


三囲神社 恵比寿 墨田区向島2-5
三囲神社 大黒天 墨田区向島2-5
弘福寺 布袋尊 墨田区向島5-3-2
長命寺 弁財天 墨田区向島5-4-4
白髭神社 寿老神 墨田区東向島3-5-2
向島百花園 福禄寿 墨田区東向島3-18-3
多聞寺 毘沙門天 墨田区墨田5-31-13


 三囲神社   弘福寺  長命寺
     
     

白髭神社  向島百花園   多聞寺
     
     


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