12千葉県 万木城



住所;千葉県夷隅郡夷隅町万木
アクセス;いすみ鉄道「国吉」駅〜徒歩

万木土岐氏には三代説、五代説、九代説があってはっきりしない。伝承では、摂津富山城から来た頼元(元頼)が安西氏に仕え、のちに里見義実の配下になったといわれる。この間の経緯ははっきりしないが、天文の内乱を経た後の後期里見氏の配下にあっては、大多喜城主・正木大膳亮時茂、東金城主・坂井右衛門佐敏房とともに、万木城主・土岐弾正少弼為頼は「里見三羽ガラス」と呼ばれ、剛勇を賞賛された。

天文七(1538)年の第一次国府台合戦では、土岐為頼は里見支配下の一将として参陣した。永禄七(1564)年の第二次国府台合戦では里見義弘配下の一将としてふたたび参陣したが、北条氏の誘降策に従い、兵を折り敷かせて傍観し、里見氏から離反した。

天正十七(1589)年、豊臣秀吉が小田原城の北条氏を攻める姿勢を鮮明にすると、万木城にも北条氏政・氏直父子から土岐頼春宛に陣触れが届き、300騎を小田原城に送った。これを見計らって、庁南城の武田豊信(信栄)が突如、手薄になった万木城を急襲した。頼春は巨岩・巨木を投げ落とし、鉄砲をつるべ撃ちに応戦、そのうちに支城の矢獄城等の援兵が寄せ手の背後を襲い、潰走する庁南勢に退路の伏兵が待ち伏せし猛射撃を加え、93の首級を挙げた。直後に里見義頼ら1500騎が来襲、付近の保良峠に伏兵を置き頼春を陥としいれようとしたが、住民の密告で頼春は密かに発坂峠に軍を移し、強襲に出た里見勢の首級175を挙げた。これに怒った大多喜城主・正木時茂(二代目・時堯・里見義頼弟)が十一月に万木城を包囲した。このときも万木城は陥ちず、時茂は一旦陣払いし、翌天正十八(1590)年一月に300騎で奇襲を掛けようとしたが、土岐勢の乱破の情報でこれを察知した頼春は川谷の隘路に伏兵を置き、夜間行軍する正木勢に鉄砲の射撃を浴びせ掛けて追い払った。

天正十八(1590)年に小田原討伐軍の本多忠勝(徳川家康属将)に攻められ落城、土岐氏は途絶え城も廃城となった。頼春は自刃したとも三河に落ち延びたとも言われる。(ウィッキペディアより)

私的満足度「★★」:「まんぎ城」と発音。大多喜まで筍を食べに来た帰りに訪問。天守閣風味の展望台が遠くから見えます。天守展望台からは東は九十九里の海、西は富士山という展望が望めます。さつきの名所です。



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