住所;埼玉県比企郡嵐山町菅谷
アクセス;東武東上線武蔵嵐山駅〜徒歩
文化財:国史跡
菅谷館跡(スガヤヤカタアト) は、関東の有力豪族である畠山氏の館に起源をもつ、中世の重要な遺跡である。元久2年(1205)武蔵二俣川の合戦の際、畠山重忠は「菅谷館」から出発したと鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」に書かれています。また、室町時代の漢詩文集「梅花無尽蔵」によると長享2年(1488)に、山内・扇谷の両上杉氏がこの須賀谷原で戦い、戦死者700人、馬は数百匹が倒れたと記され、館付近の戦いの激しさを伝えています。 現在の遺構は、本郭、二の郭、三の郭などと、それらを防衛する土塁、空堀などからなり、このような姿になったのは戦国時代のことと考えられています。
畠山重忠は長寛2年(1,164年)、畠山荘司重能を父とし、相模の名族三浦義明の娘を母として、武蔵国畠山(現大里郡川本町畠山)に生まれました。 治承4年(1,180)、源頼朝が伊豆石橋山に挙兵したとき、父の重能が平氏に仕えていたため、若干17才の重忠も平氏に属し源氏方の三浦氏を攻めました。その後間もなく頼朝に仕え、鎌倉入りや富士川の戦いに先陣をつとめ、宇治川や一の谷の合戦では、かずかずの手柄をたてました。また、児玉党と丹党との争いを調停するなど、武蔵武士の代表的人物として人々の信望を集め頼朝からも厚く信頼されていました。 頼朝の死後も和田義盛らとともに、二代将軍源頼家をたすけて政治に参与しましたが、北条氏に謀殺されました。42才でした。鎌倉時代の史書「吾妻鏡」によると、元久2年(1,205)6月19日、「鎌倉に異変あり」との急報に接した重忠は、わずか134騎の部下を率い「小(男)衾郡菅谷館」を出発し、同月22日、二俣川(現横浜市)で雲霞のごとき北条勢に囲まれ、部下とともに討たれたとあります。 嵐山町菅谷にあるこの城郭が、その「菅谷館」ではないかと古くから言われてきました。城郭の西には鎌倉へ通じる街道跡がのこされており、この城郭のどこかに重忠の館があったことも充分考えられます。 現在この城郭は、縄張りや土塁・空堀の構造から推定して、戦国時代末頃に最終的に改築されたものと考えられます。(現地案内板より)
私的満足度「★★」:訪問しやすい中世の館です。小京都と言われている武蔵嵐山駅からここまで、全く京都らしい所はありませんでした。
写真下:畠山重忠の銅像
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