所在地:埼玉県川越市郭町2丁目 アクセス:JR川越線川越駅〜バス 室町時代初期の武蔵国は、河越氏が挙兵した「平一揆の乱」制圧で実績のあった上杉氏の支配である。当時の武蔵国は、上杉氏と足利氏との抗争状態が激化し混乱した状況であり そうした時代背景から上杉氏が足利氏と対陣するために 長禄三年(1457)家臣である大田道真・道灌(どうかん)父子に命じて江戸・岩付・河越の三城を同時期に築城した。 この三城の特徴は、舌状(ぜつじょう)にのびた台地端にあり 近隣には川が流れ 辺りを低湿地にすることにより 敵に対する防備として備え、まさに自然の要害の地であった。大田道灌は、築城家であり戦略家としても知名度の高い武将であったと云う。 城の築城時は、本城と練兵場を合わせた程度であっと推定され平城で砦的な要素が強い。城の中央には太鼓櫓、東北の隅に虎櫓、本城の北に菱櫓、南西に富士見櫓の四つの櫓があった。高台にあった富士見櫓が天守閣の代わりで、敵からの攻撃や侵入を見張っていたのである。城内にある三芳野天神や、江戸時代に入り堀と屋敷がしだいに拡張されていく様子もうかがえる。城の拡張整備も松平伊豆守家の時代に完成し 面積は約326,000u(東京ドーム約7個分)であった。西大手門を正門として街道が整えられ、その先に城下町が広がり賑わいを見せていた。弘化三年(1846)二の丸炎上の後に、跡地を練兵場として使用し 焼失した武器武具方役所・番所は再建され監獄も置かれていたと云う。現在、城の建造物として残されている本城の一部は城主松平斉典が嘉永元年(1848)に造営したものである。 (川越歴史博物館HPより) 私的満足度「★」:平成20年10月〜22年3月までの間、保存修理工事に入って見れなくなるので、訪問です。川越は見応えのある町でした。ただ本丸御殿前の「赤いの」何とかして欲しかったです。(訪問日は高校野球の地区選抜の決勝戦?をやっていたための交通規制をしていた) |