住所:埼玉県深谷市仲町11番1号
アクセス;JR深谷町〜徒歩
文化財:
14世紀後半、関東管領山内上杉憲顕は、北関東の新田氏の勢力や平一揆などを抑えるため、六男の憲英(のりふさ)を深谷に派遣しました。これが深谷上杉氏の始まりです。当初は、庁鼻和(こばなわ、現在の国済寺周辺)に住んだため、庁鼻和上杉氏とも呼ばれます。
管領方の有力武将であった五代目の上杉房憲(ふさのり)の時、古河公方と関東管領との抗争が激しくなり、要害の深谷城(現在の城址公園から深谷小学校周辺)を築きました。1456年のことと考えられます。
その後、主家の山内上杉氏が没落した後、深谷上杉氏は、北条氏、上杉氏、武田氏の抗争に巻き込まれ、主家を度々変えながら存続を図ります。1573年には、完全に北条氏の傘下に入り、寄居町にある鉢形城の支城として北条氏の領国経営の中に組み込まれていきます。
このころ、市内各地には城館跡や寺院が多く残され、戦乱の時代を生き抜いてきていたことが分かっています。深谷城は、低湿地に築かれ、深い堀と土塁によって守られていました。堀の一部は、障子堀(堀底に障壁などを設けた堀)という特殊な構造であったことが、発掘調査で明らかになっています。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにより、北条方であった深谷城は開城し、その後、徳川家康の子や家臣が城主となりましたが、1626年に廃城となりました。現在は、富士浅間神社(智形神社)などの周辺に堀や土塁のこん跡を留めるのみとなっています。(深谷市HPより)
写真下:高台院(上杉憲賢の菩提寺)
私的満足度「★」:市役所脇に城跡の碑があります。城址公園に妄想で作った石垣もあります。
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