09栃木県 日光奉行所

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住所;日光市安川町10−24
アクセス;JR、東武日光駅〜バス
文化財:

西参道の交差点の北側、垣根の中に標柱が立っていてその場所が、日光市の文化財1号として昭和35年8月22日に指定された、日光奉行所跡である。日光奉行所の起因は、3代将軍家光の遺臣梶定良に始まる。梶定良は、承応元年(1652)7月日光山守護職(日光御宮守、日光御宮番、日光御廟所定番などともいう)となったが、それから40余年、元禄11年(1698)5月に、87歳で没するまで、日光廟に尽くした。その後、幕府から任命された日光目付が、その跡に住んだが、元禄13年(1700)8月、日光奉行所が置かれるようになり、梶定良の旧宅を改めて、日光奉行所の役宅とし、元禄14年(1701)8月、御奉行屋敷が竣工した。寛政3年(1791)になってから役宅に接して役所が営まれ、役宅と役所を兼ね備えた江戸時代通例の役屋敷が整った。これより、日光奉行所は「日光御役所」とも称された。その構えは、長屋造りの表門があり、それをくぐって石畳を踏めば、正面に建坪二百坪の奉行の住居、御奉行役宅があった。門をくぐって右側、すなわち役宅の東南がわに接しては、建坪約百坪の役所があった。奉行所の両隣りには、米蔵、組同心長屋、組頭役宅・日光学問所などがあり、組頭役宅の南側道を隔てて、日光火之番屋敷があった。役所には、組頭詰所・次之間公事方定式方・御収納方・裁許場・溜同心詰所・訴所・鉄砲置場・勝手などの部屋があり、裁許場の南面には、白州(広さ13坪余)が設けられ、仮牢があった。また屋敷の東北隅には、土蔵があり、役宅玄関のそばには、火之見が設けられていて、表門東寄内側に、消防用具の置場があった。役宅背後にあった稲荷神社だけが現存している。日光奉行所は、老中に属し、定員2名、役高二千石、役料五百俵、1名ずつ交代で日光に勤務した。任務の内容は、それより以前に在勤した日光目付や、梶定良のした職務を受け継いだもので、日光廟の管理を主要任務とした。つまり、日光廟の警備・営繕・催事などすべてを行ない、日光領の行政と、下野・上野両国にわたる幕府領の訴訟裁判をも行った。ただし、日光領の行政は、寛政3年(1791)から行ない、それ以前は、日光山の代官職、日光目代が執り行った。日光奉行のもとには、組頭兼目代2名・吟味役7名・組同心5名・支配同心36名・御神馬別当1名・御掃除頭2名・7か所御所同心42名・大沢御殿番2名などがいた。明治元年(1868)日光領は、官軍の軍政下に置かれ、8月に日光領はすべて、明治政府の真岡県管下に属することとなった。9月には、知事出張役所となり、ついで翌2年(1860)2月には、真岡県を廃して、日光県が置かれることとなり、その庁舎に当てられた。4年(1962)11月、廃県とともに、建物を取り壊したため、旧幕府時代の遺構は今日見ることはできない。(日光社寺と史跡HPより)

私的満足度「★」:古河電工の敷地内にあり、立ち入り禁止の立札があります。柵越しに写真を撮りました。



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