住所;福島県伊達郡梁川町鶴ヶ岡 アクセス;阿武隈急行線やながわ希望の森公園前駅〜徒歩 梁川城は伊達氏祖の朝宗が築城したと言われています。また、伊達氏三代目の伊達義広が粟野大館に移ったとされており、この粟野大館を梁川城に比定する説もあります。ただし、実際には伊達氏が梁川城に居住したのは南北朝あたり(8代宗遠、9代政宗)からというのが比較的可能性が高いと見られています。特に大永3年(1523年)には14代稙宗が陸奥国守護職に任ぜられたとき、この城は奥州第一の格式を持つ守護所の城となりました。しかし、天文元年(1532年)、稙宗は城を天嶮を恃み桑折西山城に本拠を移転します。以後、梁川城は伊達氏の支城となり、伊達稙宗の子の左衛門宗清が梁川氏を名乗り居城しました。(この梁川氏は江戸時代は仙台藩の「一家」という家格で300石、所は栗原郡鶯沢でした。) 秀吉の奥州仕置で伊達氏が岩出山に移された後には蒲生氏郷の領するところとなり、蒲生喜内頼郷(この人はのちに石田三成の家臣となり、関ヶ原で戦死した蒲生備中真令こと横山喜内です)が城を預かりました。慶長3年(1598年)、会津・信達が上杉氏の領となると、梁川城代は須田大炊 助長義が入り、以後寛文4年(1664年)まで須田氏が城代として居城しました。(見に行きませんでしたが、城の北西にある興国寺には須田氏の墓があるそうです。) その後、江戸時代、梁川は幕領となったり、大名の支領となったりしましたが、尾張家支藩松平氏は、3万石(天和3年(1683年)〜享保14年(1729年)でここ梁川に陣屋を置いて本拠とし、さらに同年、尾張藩主綱誠の七男通春が新たに梁川3万石を襲封しました。(翌年、本家尾張藩主を相続したため、廃藩となり幕領に戻りました。) また、文化4年(1807年)国防意識の高まりによって蝦夷地全島が幕府直轄となったときに、蝦夷福山藩主の松前章広が梁川に陣屋を移し9千石を領しました。この後、文政4年(1821年)松前氏は蝦夷福山に戻り、一旦、梁川は幕領に戻りますが、安政2年(1855年)函館開港にあたり、福山領の一部が幕府領となったときに、ふたたび梁川は松前氏に替地として与えられます。以後、廃藩置県まで梁川は蝦夷福山藩領の飛び地として続きました。(現地掲示板等より) 私的満足度「★★」:ここが伊達氏の故郷だそうです。思いのほか庭としての形になっていますが、いかんせん学校のグラウンドと接していますのでテニスボールが池に嵌っていたりして観賞に耐えません。 |