所在地:山形県鶴岡市羽黒町手向手向7 アクセス:鶴岡駅~バス 今日の出羽三山信仰の礎を築かれた第32代崇峻天皇の御子蜂子皇子(はちこのおうじ)の御尊像は、江戸の初めまで五重塔(昭和41(1966)年国宝指定)に安置されていた。比叡山の湖海院という高僧が五重塔を参拝された折、御尊像について尋ねられ九拝された。開祖のことは宮中の記録にあり、独自の御殿がないのはいかがなものかといわれた。そこで、元和5年(1619年)宥俊別当は羽黒山上に御堂(=開山堂)を建立し、開祖の御尊像を安置された。(羽州羽黒山中興覚書)その後、明治始めに行われた神仏分離により羽黒山は神の山となり、開山堂は蜂子神社と改められた。(山形庄内観光サイトHPより) 蜂子皇子は欽明天皇23年(562年)に崇峻天皇の第三皇子として誕生したと伝わる。崇峻天皇5年(592年)11月3日に、蜂子皇子の父である崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、馬子から逃れるべく蜂子皇子は聖徳太子によって匿われ宮中を脱出して丹後国由良(現在の京都府宮津市由良)から海を船で北へと向った。そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸した。八乙女浦という地名は、その時の八人の乙女に由来する。蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと言われている。 羽黒では、人々の面倒をよく見て、人々の多くの苦悩を取り除いた事から、能除仙(のうじょせん)や能除大師、能除太子(のうじょたいし)などと呼ばれる様になった。現在に残されている肖像画では怪異な容貌に描かれたものが多いが、多くの人の悩みを聞いた結果そのような顔になったとも言われている。出羽三山神社にある皇子の墓(東北地方で唯一の皇族の墓)は、現在も宮内庁によって管理されている。(ウィッキペディアより) 私的満足度「★★」:出羽三山神社内にあります。彫刻が見事です。東北地方唯一の皇族の墓で宮内庁が管理する「蜂子皇子墓」(写真下)もありました。 |