05秋田県 久保田城

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所在地:秋田県秋田市千秋公園
アクセス:JR秋田新幹線・秋田駅〜徒歩
秋田へ来てから佐竹氏は最初に土崎にある湊城へ入城しますが、手狭や防衛上の要害でないとの理由から新しい築城計画を打ち出します。当初は本城を秋田周辺を押す渋江内膳と、横手周辺を押す梶原美濃とで議論が分かれたそうですが、結果的に藩主である義宣が秋田(久保田)の地に決めました(後、梶原美濃が越後に出奔したのは、この論争に敗れた為と言われています)。久保田城がある地は神明山とも呼ばれ、当時、三津七湊の一つに数えられる土崎港を外港し、領内の中央にある為、政治や経済を抑える事が出来、又、西側を仁別川(旭川)、東側に長沼(現在は埋め立てられて存在しない)があり北側は丘陵と繋がている要害の地でした。神明山は標高40mほどの低山で、頂が3箇所、3段の平地から構成され、久保田城の築城の祭はそれらの地形を生かす事で最小限の労力で行われたとされます。仁別川を掘り替えすることで西側の備え、東側の長沼も外堀化するように整備し、唯一要害でない南側は4重の掘を廻したうえ、家臣を配し、見通しの悪い町割りをしました。佐竹氏は20.5万石の大名でしたが久保田城の城下町を含めた、城郭の規模は30万石をも超えるといわれ、かなりの力を込めていた事が分かりまが、それに反し高い石垣や天守閣などの大きな建物は築かれませんでした。これには諸説あり、幕府に遠慮したとも、実践的な城を好んだとも、元々技術が無かったとも言われています。元々いた水戸城や太田城などや支城である横手城や大館城も久保田城と同様な形式を持っています。
表門(写真下):「表門は久保田城本丸の正面で、一ノ門とも呼ばれていた。 本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、左手には門の警備と管理をする「御番頭局」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所」を置いて厳重な守りを固めていた。 久保田城は慶長8年(1603)に築城して翌年に完成し、表門は元和8年(1622)に最初の建て替えが行われている。 その後、寛永10年(1633)、安永7年(1778)など何度か火災に見舞われている。 この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建したもので、構造は木造二階建て瓦葺き櫓門であり、佐竹20万石の正門にふさわしい壮大なものとなっている。」(秋田県HPより)

私的満足度「★★」:綺麗なところです。木が多すぎてなかなか良い写真が撮れないのが心残りです。


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