住所;岩手県奥州市水沢区表小路奥州市水沢区表小路(奥州市役所周辺)
アクセス;JR水沢駅〜徒歩
文化財:
水沢城は、いつ、誰が最初築いたか明らかではないが、地形的にも、早くから城館が存在し、戦備に利用されたと思われる。天正19年(1591)、豊臣秀吉が天正年間の一揆を下した後、家臣上杉景勝が修復し、伊達政宗に渡したといわれる。その後、伊達の臣、白石宗実、柴田外記、石母田宗頼らが居城した。かつて奥州留守職であった留守氏が、岩切の高森城、利府黄海、清水、一関、金ヶ崎を経て、寛永6年(1629)伊達宗利(留守氏)の時、この地に移され城主となった。以後、1万石から1万6千石となり、明治維新まで約240年間居城した。本丸、南の丸、二の丸、三の丸等があり、次第に城下町が形成された。天保12年(1841)城中に藩校立生館が置かれた。廃藩置県後は、胆沢県庁、小学校などと変わり、現在、市役所や合同庁舎がたっている。本丸、二の丸等のあった所は、住宅地となり、城跡の面影が殆ど失われているが、吉小路、新小路、日高小路、大畑小路などは、城内の面影を残し、当時を偲ぶ武家屋敷が旧構のまま残されている。
城は、正確には水沢要害と呼ばれ、一之曲輪(本丸)、二之曲輪(二の丸)、三之曲輪(三の丸)、南曲輪等にわかれ、曲輪を囲む土塁に杉や松が植えられていたが、現在は、この姥杉1本だけが残っている。市役所、県合同庁舎敷地が三之曲輪に含まれ、市役所正面玄関付近に、大手門や太鼓櫓、後に子弟の教育の場であった立生館(りゅうせいかん)が置かれた。(現地案内板等より)
私的満足度「★★」:水沢城は現在の市役所近辺にありましたが、開発が進んで現在は跡形もなくなっています。しかし市役所の前に「姥杉」と呼ばれる一本だけ大きな杉の木が残って歴史を感じることができます。
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