03岩手県 九戸城

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住所;岩手県二戸市福岡字城ノ内、字松ノ丸
アクセス;JR二戸駅〜バス
文化財:国指定史跡

政実の4代前の光正が明応年間(1492〜1501年)に築城。その後九戸氏は着実に勢力を拡大します。天正8(1580)年三戸城主南部24代晴政が死去。晩年まで嫡男が無く、一族の田子信直(たっこのぶなお)を後継者に指名。しかし、男子(25代晴継=はるつぐ)誕生後は信直を嫌い世継ぎを撤回。晴政の死後、南部は跡目を巡り、信直指示派と晴継擁護の九戸一派とが対立。晴継も13才で謎の死を遂げ、混迷の中、信直が南部26代目を継ぎます。
天正18年、秀吉は小田原城攻略後、奥州仕置を開始。小田原不参陣の諸氏を追放しますが仕置軍が去ると残党が蜂起し不穏な状況でした。この機に乗じ政実は翌年3月に挙兵。信直は苦戦を強いられますが、9月1日には奥州再仕置軍が馬淵川流域に到着。6万騎を敵に籠城軍は5千人。
しかし、苦戦と疲弊の上方軍は4日、九戸氏菩提寺の和尚を使者に、政実の武勲を称え、婦子女や下級武士の助命を条件に和議を勧告、政実はこれを呑み開門しますが、これは謀略で、悉く撫で斬りにされ九戸城はあえなく落城。政実らは、宮城県三迫で処刑、九戸神社と首洗いの池が残っています。 秀吉の国内統一は完了し、実名ともに配下の諸国大名となった信直に和賀・稗貫・志和の三郡を加封、蒲生氏郷に命じ九戸城を豊臣流の城に改修し授けました。信直はこの城を福岡城と改め南部の本拠地としました。その子利直が盛岡城に本拠を移す寛永13(1636)年に廃城となりました。 現在市では公有化と発掘調査を進め、文化庁や整備委員会の指導の下で史跡公園化を進めています。(二戸市教育委員会 生涯学習課HPより)

私的満足度「★」:雨さえ降っていなければもっと探訪したのですが、思った以上に堀切とかが残っていてなかなか良かったです。



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