(国内月刊誌に公表済み)

水俣病・悲劇の終焉は依然遠く

 初めての患者発生以来、半世紀の歳月が流れた。そして昨秋以降の1000件を超える認定申請の洪水。水俣病の大量潜在患者のこの浮上は、何を意味しているのか。一方、高収益部門を傍系会社として独立させても、チッソ本体(岡田俊一取締役社長)は安泰である。昨年三月期の総売上高は一三二七億八四〇〇万円、営業利益は一〇九億五八〇〇万円だ。


《今なお続く苦悩の日々》

 愛知万博といってもトヨタ自動車見本市に過ぎなかったが、その取材を終えた足で熊本県水俣市に向かった。環境を謳ったこの万博とうらはらに、水俣では水俣病の新規認定要請が1000件を超えたからだ。

水俣市北郊に位置するかつての漁村集落。胎児性患者、いってみれば原爆での胎内被曝同様、出生時にすでにメティル水銀中毒で重症だった方の海辺の家である。患者は風邪で横臥していた。病状を見守る伯母が苦悩を露わにする。この伯母自身も三〇年前、四〇歳の頃に水俣病患者と認定されている。

「もう疲れました。そっとしておいてくれ、騒がずにしておいてくれと言いたい。もう限界です。今日も頭痛で、ふらふらしています。でも苦しみを誰かに聞いてもらいたい気もします。とくにチッソ(水俣湾の水銀汚染企業)には、『あんた達、なぜ毒を流したの。あの毒さえ流さなければ、こんなことはなかったのに』と今も言いたい。この齢になっても、『この病気さえなければ、私の人生はどうなっていたのだろう』、そればかりを思う」。

 病床のみの人生を生きてきた甥も四〇代半ばを超えているはずだ。
「あの子にしても、健康だったら家族も子供いるはず。母親の気持ちが良くわかる。昨日もまた言ってました。『願わくば自分より一日早く安心してこのまま眠るようにして世を去って欲しい。そうすれば私も思いのこすことなく死ねる』。
私たちがいなくなったら、この子はどうなるんだろう。誰が介護してくれるんだろう。それだけが心配です。私たちの悩みは、一時間や二時間見ても何も分からないからせめて三日間はいてください。」
 胎児性水俣病患者の公式認定数は六四名。しかし、前夜、話を伺った、水俣病の告発で著名な熊本学園大学原田教授は杜撰な調査結果だと厚生省への怒りをかくしていなかった。「私たちで、確認できた数でも六六.政府の策定した公式認定基準に準拠しても、他に相当数存在するのは確実だ。厚生省はきちんと調査しようとさえしない。」
 これら胎児性水俣病患者も中年に達した。もとより親たちは高齢化している。親の死後の患者の自殺も昨年はおきている。「『お母さんが、死ぬときは私も連れて行ってね』と母に頼む女性患者」。介護施設は絶対数が不足しているままだ。問題は何一つ解決していない。
《認定されない一七八一名》
 水俣にも、昨年,九州新幹線が開通した。一般道を四〇分も走れば、八代インターで熊本につながる高速道路に乗れる。それにも拘わらず、水俣は以前に比べ確実に寂れている。JR駅前の数十店舗はある昔ながらの通称『駅前マーケット』でも数店舗が開いているだけだ。目抜きどうりでさえシャッターを終日閉ざしたままの店舗は少なくない。
 五三歳の、とある旅館の女将が現況を嘆いていた。
「漁師はいなくなりました。しかし、海沿いに住む,七,八〇代の元漁業関係者は誰もが多かれ少なかれ水俣病に罹患しているのでしょう。患者は補償金をもらいましたが、何も貰わなかった一般市民も被害者ですよ。街が悪名化し、寂れてしまいましたからね。昔に比べると人口も二万は減りました。新幹線が通っても所詮は通過駅。鹿児島に行くにも、逆方向の八代までゆき、乗り換えてまた逆行。列車料金もずいぶんあがりました。」
 水俣市協立病院を訪れる。チッソ水俣本部・水俣製造所正門前に位置し、患者らが恩人として慕った藤野医師らが設立したこの病院も改築されていた。
 「ここだけでも昨年十月の最高裁判決以降三〇〇人を超える認定希望者が殺到しています。これからどれだけ増えるか?とても予測はつきません。」この病院の専門家にしても、今後の推移は推測も不能という。

 現在、公式に水俣病と認定されている患者数は二二六五人である。これら患者を患者として認定した基準は環境庁が一九七七年に通知した「後天性水俣病の判断条件」。すなわち四肢抹消感覚障害に併合し、以下いずれかの障害が認められなければならない。運動失調、平衡機能障害、求心性視野狭窄、中枢性眼科障害、その他。認定されれば一時金一六〇〇万円以上の損害賠償、その他の補償を受給できる。全額チッソの負担である。
 それに先立ち、一九六九年、患者ら一三八名はチッソに損害賠償を求めていた。この第一次訴訟以降、訴訟提起があいついだが社会党と自民党の連立政権だった村山内閣が介入し、一九九五末政府解決案を提示。各裁判の被告、原告双方は翌一九九六年、この提案に基づく和解案を受諾した。患者らの高齢化ゆえ、原告側にしてみれば、不満ながらも受け容れざるを得なかったという側面が強い。また、政府によるこの介入には政治的思惑があったとある患者は指摘している。「皇室問題に絡んでいるという意見が私たち内部にも強かった。皇太子妃の結婚前で、彼女の祖父がチッソの役員だったから、ともかく、結婚前にこの問題を解決し、祝祭の雰囲気を醸し出さなければならなかった。」
 この和解案に基づき策定されたのが水俣病総合対策医療事業である。
 その枠組みの中で、症状としては四肢抹消感覚障害のみが認定条件となり、認定患者総数は一〇三五三名に大幅に拡大した。いわゆる健康手帳(その後医療手帳に改変)の受給患者である。損害賠償は一時金一一六〇万円(全額チッソの負担)その他。それ以外に全身同程度の感覚障害、あるいは四肢の先端に行くほど酷くなる触角ないし痛覚の障害があり、さらにしびれ、震え、眩暈、視野狭窄のいずれかがある一一八七名も認定され、これがいわゆる保険手帳受給者だ。彼らへの補償は療養費自己負担分、鍼灸費用、月五回までの温泉療養費の支給である。
 しかし、患者らには少なからぬ不満が残った。当然である。認定を申請したにもかかわらず、いずれの該当条件も認められなかった事例は一七八一名。国、県の責任は不問に付されていたばかりか、審査そのものがいかにも杜撰だったようだ。「認定されるには、あそこの病院に行け、あそこは共産党系だからだめだ。ともかく連合系の組合の役員に話を県の職員にとうして貰えとか」いった情報はなかば常識に化していました」とのある患者の追想。
 たとえば両親、姉が上述した一九七七年の環境庁通達基準での認定患者。弟二名が一九九六年の認定基準で患者とされた四七歳の女性がいる。その資料を示しつつ、担当医は、熊本県の審査方法を告発する。「こんな馬鹿な話がありますか。ずっと何十年も一緒に暮らし、同じ食事をしてきたのに、姉だけが、認定されないなんて。」
いかにも穏やかな不知火海を渡り、チッソ水俣工場の対岸に位置する 獅子島にわたった。現在では日に四度運航されている快速船で、三〇分もかからない。
この島の湯の口地区は大半の住民が認定患者である。四〇歳代の猟師が家族の状況を説明する。
「母は重症で、二五年前から病状が悪化し、家族全員で面倒をみてきましたが、今は施設に入っています。苦しみのあまり、母が夜中に何か叫んでも、私たちも精神的にもう疲れ果てていて、充分な介護など、とてもしようがありませんでしたから。この島には医師も週に三回、巡回してくるだけですから。
 私にしても、物心ついたときには手が震えていました。今でも、うまく字をかけません。足もしびれるし。それなのに認定の請求はなぜか、却下されています。何時間もかけて貰った 診断書を持参して、審査はわずか二分間だけでした。
 今度も申請します。ただ私たちの家族の心の苦しみだけは、せめて認めてもらいたいと思って。
以前は娘の縁談に響くのを慮って、認定申請をためらった人も多かったが、彼らも今度は申請するんじゃないですか。」


 上述の和解を拒否したグループもある。関西在住の一部患者が、国、県の行政責任を問うために裁判を継続させたからだ。その提訴以来二二年、昨年一〇月一五日、最高裁第二小法廷が、大阪高裁の判決を追認した。
 この最高裁の審理で焦点となったのは腱反射の有無が、感覚障害の異常を判断する基準として充分かどうかの問題だ。たとえば膝蓋下部の腱に外部から打撃を加えれば、筋肉は反射的に収縮するのは周知のとうりだ。しかし、水俣病患者の場合、この腱反射の異常は少ない。それにも拘わらず、従来の認定審査ではこの腱反射に異常が見られることを感覚障害ありとする基準の一つとしていた。
 ところで、水俣病の典型的症状である感覚障害は、メティル水銀の摂取が大脳皮質に起こした障害に由来している。末梢神経に損傷を起こしたがゆえではない。最高裁は審理の結果患者側のこの主張を採用した。大脳皮質に存在する障害は、皮膚、舌などで間隔をおいた二点に刺激を与えた際の感覚障害として現れる。まず舌における二点間の識別感覚の異常は、大脳皮質に障害がない限り一般に現出することはない。皮膚での感覚障害に関しては、健常人なら、数ミリの間隔を置けば二点として認識できる。しかし、水俣病による感覚障害があれば、その間隔が大きく拡大する。
 要するに最高裁の判断は、従来の認定基準に代えて舌におけるこの二点識別感覚を、基準として採用せよという命令である。いうまでもなくこの判断は決定的な重みをもつ。
敗訴した政府、県は対応に苦慮、本稿脱稿時点ではまだ結論を出していない。しかし、熊本県の内部資料が、この問題の重要性をはしなくも暴露している。
 最高裁判決後、同県はあらたな水俣病対策として、上述の保険手帳給付の対象となる基準を援用し、あらたに認定患者数を試算した。
 つまり、しびれ、ふるえの有無を無視し、全身同程度の感覚障害、または四肢の先端にゆくほど酷くなる触覚・痛覚いずれかの障害の有無を基礎とすると、どれだけの患者を認定患者とせざるを得なくなるかの試算である

驚くべき数字が出た。熊本県だけでも二万五〇〇〇人。鹿児島県でも優に一万を超えるというのである。まして、上述した舌部分での二点の識別感覚の異常を患者側が認定基準として採用するよう迫るのも必至だ。

 この基準が採用されれば、認定者の数は劇的に増大するだろう。この最高裁判決以降、三月末までに浮上した一〇〇〇名余りの認定申請者は氷山の一角に過ぎなくなる。 従来から、熊本県水俣市、津奈木町福浦、鹿児島県獅子島湯の口など認定患者数の多い汚染地域の感覚障害の九九%が、有機水銀に起因している事実を専門家による調査は明らかにしていた。それでいて、これらの地区ですら相当数の認定申請者は現行基準では患者として認定されていない。舌部分での二点感覚識別検査を行った場合、そのほとんどが認定される可能性は高い。地区によっては大半の住民が新基準では、認定患者となろう。



最高裁判決後、熊本県は余儀なく不知火海沿岸全域の住民を対象に、チッソが排出したメティル水銀が健康に与えた影響の包括的調査の実施も厚生省に提案している。仮に厚生省がそれに同意し、熊本県二〇市町村の三七万三〇〇〇人、鹿児島県六市町村九万七〇〇〇人(人口はいずれも前回の国勢調査結果)に二点感覚識別調査を包括的に実施すれば、どれだけの潜在患者が浮上するか、予測はつかない。
鹿児島県出水市名護。水俣から海岸沿いに車で二〇分ほどの距離だ。
政府介入により決着した一九九六年の和解に到るまで、患者原告団を主導した七九歳の長老が、水俣病の半世紀を回顧しつつ、水俣病認定請求者の唐突な激増について、こう説明してくれた。
「平家の落人が海賊として住み着いたという伝説があり、それゆえに派手な漁法はだめだといういわれもあって、風に帆を打たせる打たせ舟に、旦那衆二、三人が乗り込む零細規模の漁法で、生活を営む集落でした。畑などない。農家と車海老を交換し、米を得てはいたが、白米は新年とか誕生日にしか口にできなかった。
 冷蔵庫がなかった時代だから、朝は味噌汁と刺身、昼は焼き魚、夜は煮魚。こんな漁村だから、チッソ関連企業の従業員は、水俣病の認定をうけることで馘首されるのを恐れたし、親族が水俣病と認められ、離婚させられた主婦もいる。婚約の破談も二,三ありました。
 一九六〇年から六一年にかけて、この地区でも劇症型の水俣病患者が発生し、出水の病院ではとても対応できないというので、妻が水俣までつれて行き、そのまま入院した者もいます。この妻が布団を取りに戻った際、話を耳にした漁協の関係者が、この患者を強引に自宅に連れ戻したような時代です。市役所にしても、水俣病患者認定用の申請書の配布を受けに行ったものになんだかんだ言って、それを拒んだ。そんな時代もあったのです。
  一九七三,四年頃には、患者として認定されたら、周囲の目を絶えず気にせねばならず、中傷に耐えかねて首を吊った人が、ここでも出ました。家を改築したら水俣御殿とか言われてね。私たちがあの裁判をやっている時にも認定患者云々とかの非難は絶えなかった。
 時代が変わったのは八〇年代半ばです。こんな中傷もなくなったし、周囲の理解も深まった。今四,五〇代の人は、一九五,六〇年代の生まれだから、それだけでも水俣病の検診対象です。今まではなんとかやってきましたが、年をとるにつれ体調も思わしくない。やはり水銀のせいなのかと、これから漁業でやってゆけるのかなと不安がっていた。
 連日明け方から日没まで働いて、年収はたかだか二、三〇〇万円程度です。そこから燃料費、船舶費を捻出しなければなりませんからね。われわれがいろいろと宣伝したのに、患者救済の認定システムがあることさえ知らない人たちも居ました。だから関西判決を新聞やTVが報道したり、うわさを知り合いから聞いてどうしたら良いかと相談に来た人も居る。患者認定の申請が最近続々と出ているのはそのせいです。」
 もっとも、ここ数ヶ月の洪水のような認定申請の提出の背後には、政治的な動きの皆無というわけではないようだ。
 水俣の街にはこんな情報も流れている。
「10年前の政治決着の時に、そんな動きに乗るなと組織を作って活動していた認定患者が居る。今になって考えると、チッソの策動に乗っていたのですな。政治決着で団体加算金として、政治団体への補助金が出たが、それをもらえぬまま、チッソに掛け合ったが不調。それでチッソをうらんでいたようですが、今回も患者団体を作って動いている。患者団体への補助が今度も出るとにらんでいるのでしょう。
  水俣は今後どう変貌するのか。少年期を過ごしたこの故郷に、三〇年ぶりに居を定めたある男性はこう語る。
「もう五〇年も前の話です。五才くらいの時にある病気で入院したら、同室に胎児性の患者が居ました。指先は反対に曲がり、眼は開いているのに見えないという。耳はあるのに聞こえないという。しかし親が節句の時などに、ちゃんと盛装させるとうれしそうな笑顔をみせていた。言葉は話せないが、一生懸命に話を伝えがっていました。しゃべろうとすると体が震えた。生き地獄でした。
 彼女が死んだときには冷ややかな眼で見る人もいた。まだ伝染病ではないかと考える人も居た時代で、汽車が水俣駅に停まると車窓を閉ざす人の居た時代だ。
 三〇年ぶりに故郷に戻ってきたが、役所の考えはまったく変わっていない。あれだけの眼にあったのに、なぜ九州全域のゴミを集める最終処理場の計画などがもちあがるのだろう。廃棄物の恐ろしさを学んでいない。なんだこの街はという感じですね。」
 患者発生以来半世紀の時が流れた。おそらくは日本史に残るであろう水俣病というこの悲劇に依然大団円の気配はない。

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