WUN  蝉゛


1968年名古屋工業大学に赴任し、1976年新潟大学教育学部新潟本校(その後三分校統合により五十嵐に移転)に出向した。1990年横浜市立大学文理学部(その後国際文化学部、2005年4月から公立独立法人総合科学部)に転出し,退職した。2007年から新設の東京未来大学に就職。
その間に多くの学生諸君と接し、今も尚交流を保っている。これは、教師冥利に尽きるといえる。
私の諸氏との交流ー長い者には40年近くになるーを諸氏と共有したいと望みこのページを設けました。

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諸氏からの最新情報をお知らせ下さい。(写真も歓迎) 順次更新します。
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「思い出」を、ゼミ生の思い出を書いてみます。これはあくまでも私の記憶です。順次記載しますので、ご期待下さい。
 


 氏 名(旧姓) 年次 近 況(年賀状よ 思い出
NIT(教職課程受講の学生)
鎌刈謙一 75 愛知学院高校大学卒。卒業後埼玉。川口の市立商業(巨人の斉藤投手の出身校に就職。赴任校と妻の実家に近いことから里帰り時によくあった。その後数学教育・研究で優秀であり、出身地区の高校に招聘され、活動している。趣味が旅行で、海外の写真が年賀状に添付されている。愛知.東海市 高校退職
NITの思い出:赴任の年の暮れに大学紛争が生じた。管理上の問題ではなく、不正入試がっきっかけであった。学内は騒然とし、遂には校舎の占拠した。教養部の校舎であった。年齢が近いことから、学生や校舎を占拠する対話を試みたが、管理職から、拉致されたと誤解されるので中止を求められた。その間なんらの打開策を取ろうとしなかった。大学管理職も、職組も崩壊した。大学の体制を改革しようと努力し、崩壊した職組の建て直しを要請され、引受けた。教職員の労働条件の改善である。学内の管理責任の確立であった。学長交や事務局長との教職員の職場の改善などを交渉し、不正入試審議結果の公表、管理、職場の民主化、女子職員のための保育所設置などを勝ち得た。保育所の資金作りのために新聞紙回収もした。また地区の職組と共同で都市手当ての改善を勝ち取った。この経験は、管理や事務の内情について知ることになった。教職専任が一人という事で、協力校との教職協議会の主催、巡回指導を行った。大学院修了で講師になったことで、先任助教授の嫉妬から、在職中は助教授にはならなかった。先任助教授達は、高校教員、大学助手を経て、38歳で助教授になったいたためか、妨害が激しかった。大学院修了後の講師就任は私が初めてではなかったが、先任の講師が2年後に転出した(後に京都大学)ので矢面に立ったようである。転出後にも同様な経歴の持った講師達も30歳後半で助教授になっている。76年1月の母校から新潟大学からの話があり、当時愛知学院教授であった依田教授や新潟出身の近藤教授と相談し、転出することを決めた。決定後の父の母校のT大からの話があったが、決定を破棄することは義に反すと考え赴任した
ゼミ生以外も交流のある者を含む   ゼミ方式(統合前 4名 統合後 7名の教官) 思い出
関裕子(坂口) 76 長野出身で、卒業後に横浜市に在住。卒論ではピアジェの速度認識について研究した。8mm撮影機での動画作りに苦労した。夫君恒雄氏逝去
佐藤淳一 あと一年で退職 卒後山形で教職に就いた。卒論ではATIについて不安から研究した。不安はSpielbergのTrait-State尺度を、Dr.から送ってもらい使用した。Dr.から、日本研究者からの問い合わせで、大西に聞くようにとよく手紙が来た。ANOVA 分析に際しては、Casioの分散分析付の電卓を購入し、実施した。夫人 寿美子氏 山形・村山市校長
田中智子(長下部) 毎日ウオーキングに励んでいる。 新発田出身。医者の夫君-当時の学長の教え子で、学長との懇親会で話題になった-と結婚し、妊娠中に青山のマンション(コモン)前であった。今は長岡在住。
白崎久子   新井市出身
佐藤恵美子(市川) 夫君正彦氏 鶴岡赴任  斉藤先生のゼミ生であり、なぜか交流がある。中々結婚しないので、仲介し結婚を促したことがある。85年にコールバーグ来日講演中に結婚式があり、参列するために山形に行った記憶がある。ご主人-県庁勤務-が、澤(さんと現 池村)の同級生で、当時音信不通であった参加した同級生に調査を依頼した。銀座で廉価なコーヒー店で、東京に転勤していた子連れの彼女と会った。
池田幹夫 退職2年目 研究生として在学していた。後輩の鈴木君とは懇意にしていた。
池村百合子(澤) 77 長男夫婦の子ども(孫)の世話に仙台まで。点字図書のボランティア 卒後東京で教職。連絡が途絶え、市川さんに依頼して、住所を知り、連絡する。体調不良とのこと。寒河江出身(高田出身)
横山泉(白石) 喪中 長野牟礼出身で、卒後長野で教職。
鷲澤章子(原) 還暦 卒後立川さんと同じ会社に勤務したが、その後教職へ。三條の由緒のある寺の娘。
立川入子(立川) 新潟・見附在 初孫誕生 一人子。見附で保険業を営む。
権田道男 夫人京子氏 名大生の長男、高校生の次男、三男 長野出身。教職後実家の教会を引き継ぐ。Jungや手塚治に夢中。 長野・大町在 教会で地域に貢献中
小島勢恵子(神) 青森  
鈴木友之 あと一年で退職  栃木出身。栃木の児童相談所に勤務。学生時代には、釣に凝った。よく黒鯛釣りに行った、腕はいまいちであった。浜浦の浜で一定量のキス釣った後に帰省と決めていたが、達せず帰省してしまった。片思いが激しく、卒業式後には泣いて訪問されたのには参った。夫人とは同郷で、栃木弁で言葉が通じたようである
菅原直子(弭間) 78 3歳の孫と。酒田でろう学校教員  双生児(姉は数学科専攻)で、おとなしい学生であった山形・酒田で聾学校教員として頑張っている。
宮澤美登里 夫君 武弘氏 長野出身で、竹前さんとペァを組んでいた。 長野・佐久にて教員。新年度からは家族がバラバラに(夫君の転勤と子供の就学)
竹前真澄(竹前) 非常講師を辞め、両親介護に。夫君金三氏は今春校長退職。 藤巻さんとペァを組んでいた。卒業式後に電話したら、付き合っていた者の名を自白した。その後仁平ゼミの金蔵君と結婚し、長野で教員をしている。卒論は、性的嗜好を巧妙な装置で実施した。夫君は教頭に就任。
笠原和江(早川) 新大では珍しい滋賀出身であるが、新潟出身の同級生と結婚し新潟に留まっている。
細井隆子   国語専攻で養護免許取得時に、成瀬教授の佐渡研修、その後の付属養護の教官として知った。その後、高田出身であるが結婚して新潟に在住。
白石真美(松野) 79 夫君明仁氏 新潟 教員 上越の松代出身の物静かな学生であった。下宿の家主に気に入られて嫁いだようである。
中山俊枝  石川・金沢 養護教諭 独立独歩の学生であり、金沢に嫁ぎ、教員をしている3男(大、中、小)の母
飯野武 長男は4月から社会人 山梨出身であり、白いスカーフをはおり現在のイケメンを演じいた。山梨.難病から生還 教員復帰
木村明彦 八戸市 校長  青森出身で、飯野君と同様にイケメンを演じていたが、喋るとその落差に驚かされる。理科教育には熱心であり、頑張っている。
斉木久美子(小柳) 長男が結婚、次男上教大修了し、特別支援に就職予定
新潟・六日町 教員 夫君は養護の斎木君
佐藤雅代(堤) 長岡 教員 二周り違う新卒教員の指導教官に バトミントンが得意な生徒であり、よくバトミントン大会を開催した。ボーリング大会も。
柳多佳子(堀江) 子どもとは別居 新潟・阿賀野 教員、専修免許取得中
小林広紀 新潟市市教委 新潟市・燕東小勤務  
小野寺久美子(鷲尾) 新潟出身  
鹿住美子 上越出身  
波多由美(鈴木) 千葉・船橋在 某集団の活動にはまっている 新発田出身
萩行圭子(中村) 喪中 生家は、富山駅前で、今は区画整理で無い。
須山正子(杉崎) 5年後の同窓会を楽しみに 卒後、横浜に就職。結婚し、故郷静岡清水区に戻る。知的障害養護学校で奮闘中夫君慶春氏 中高生の二人
畠山直人 長岡市立養護学校校長  新潟本校時,エネルギシュな行動をしていた。卒後、その活動がTVに移された。
三浦真由美(斉藤) 80 夫君晃 青森 養護教員  卒後しばらく神奈川県で養護教員をしていたそこにYCU生と訪問したことがある。
生田玲子 新潟・三条  
中山俊枝 富山出身で、嫁いで金沢へ。養護教員として活躍している
金子恭子 新潟在   
助川敦子 福島在  
石坂千代美 富山八個山出身  
斉藤美智江    
原田千鶴子    
草間むつ子 新潟・上越出身  
熊野雄子(井波) 81三分校統合 23歳と19歳の娘の母親。 夫君は回復した。YCUの講義受講者で夫君を知っている者がいるのに驚き。富山・砺波 富山 養護学校勤務。ラクビー指導の夫君は2009急逝
沓澤均 裕子夫人 一男一女 教頭昇格 秋田・湯沢   
広瀬あき 新潟出身  
大島成治 富山出身  
松野孝雄 82 竹尾小学校勤務  千恵美夫人 2男1女近くの学校に転出
須藤由美子    
中野聖子 東京在  
出江一枝 新潟・長岡 養護のMを修了 長岡日赤病院を退職  
矢端正子(小野塚) 63 夫君敦夫氏ときままなドライブをしている。  長野市に単身赴任 学童保育指導員として活躍 一男一女 関東地区に転出予定
笠原節子(岩島) 春日小学校 新潟・糸魚川 教員.アラブ語を学習。夫君とエコ活動をしていたが連絡が途絶えた。
上田康子 介護福祉士を受験する予定。 石川県で特別支援活動をしている。
村田明子 新潟・小千谷出身 新採で村上町に就職。その後結婚し、出身地で教員に。
渡辺真由美 千葉・八千代在 川村教授転出で、ゼミに参加。愉快な学生であった。
本保次世(斉藤) 84 新潟・粟島小学校 
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家は中越地震の被害。粟島から赴任地に帰れないことがしばしば。姉夫婦が都市計画でまったくモダンになった東神奈川で飲食店を経営している。最近粟島に戻り、島留学活動をしている。夫君は町長に就任した。
夫君の腎臓手術で、彼女の腎臓が提供された。素晴らしいことである。成功を祈っている(13年10月)
倉松志保子(本田) 次男は高校受験 新潟・村上 教員。新任研修での出会い。隣家の子が偶然にも家内の勤務した大学(本年度からは非常勤)に進学した。
長谷川早苗(能島) 潟・糸魚川に在にて越境(富山)教員 隣の科の同級生と結婚。夫は新潟県の教員。妹は、保健体育科へ
植木えり子 新潟・上越出身 新卒で長岡に赴任し、結婚後出身地の上越へ
大谷玲子(出分) 富山・射水 歯科医院夫人  
加瀬美奈子(渡辺) 85 新潟・豊栄で6年担任。三女の母  
北川智子(佐藤) 一人息子は親元を離れて大学生  栃木・足利にて1年担任
樋口晴美(宮崎) 夫君徹氏 二男 エレクトロンを始める 新潟  
豊島由香(宮原) 新潟・三条 労災病院で治療師。  
野沢博文 長野・長野で教員 双生児の父  
渡辺泰治 86 友美子夫人 凛  新潟・教員(村上小)
山口裕輔 横浜 日立ソフト   
伊藤美奈子 相撲の親方夫人 学生時代に新潟の民放でお天気姉さんとして活躍
須佐亮子 新潟出身  
田中真理子 青森出身  
菅良子(菅) 87 長女、次女も関東に  夫君聡男氏 新潟・新発田にて教員
今田真美 長女は東京で院進学、長男は大学進学  夫君信弘氏 一男一女の母 
川野美佳(後藤) 夫君甚一郎氏 二男 電気通信大学に就職  東京・調布に新居完成
福島良子(美原)  夫君善行氏 双子(優・創)の母 新潟・教員
樺原由紀子(村井) 育児休暇を終え、復帰  新潟・長岡で教員 長岡技術大学の夫と
高橋充子 新潟出身 両親が教員。新潟祭りの際に目撃
森田美幸(狩野) 88 群馬出身で、富山。魚津に嫁いだ。一男一女
木口敦子(土屋) 優秀教員で表彰 群大出身のご主人と。群馬・安中で教員、大学生の長男と一女
森山信男 山潟小へ  
渡辺晃 新潟濁川小学校独身貴族 両親とも教職。独身生活を謳歌している。
村井麻子 新潟出身  
小関徳子(古俣) 89 新潟市 教員 卒後企業に就職した後教職へ。両親とも教職。春日山にマンションを購入。
名畑由之 死亡
上越教育大学院修了旅行で中国旅行中に事故で逝去(05/03)
岡田義則 新潟 養護学校教頭  
布施直美 90 ミルヲーキのマーケット大学に留学後、新潟市内で心理職に励む
品田恵美子 新潟出身  
山井晴美 富山在 富山に嫁ぐ。結婚式に招待たれたが、先約の結婚式参加で断った。
安部信明 新潟出身 貿易関係の起業を目論んでいたが。
今井信郎 新潟村上 教員  
杉下交生 院生 新潟・西川 校長  
五十嵐義郎    
山口和孝    
NUの思い出:前年に購入した白のビートルスで新潟大学教育学部新潟本校に赴任した(東北大学教養部に転出した国分振教授の後任)。4月初めで、前橋で晴れていたが、道路情報では三国峠は積雪のためチエーン準備と書かれていたので、疑いながらチエーンを購入し、三国峠を登ったが、急にフロントが曇り、路面が凍結していた。早速チエーンを装備し、慎重に運転し峠越えをした。新潟市内は雪は無かったので幸いであった。合同宿舎の河渡の落ち着いた。窓から、日本海、佐渡、新潟空港が見られ、春にはチューリップが全開であった。
本校には4名(斉藤、竹下、仁平各氏)の教官がいた。前期は、多くは長岡、高田分校で学習し、3年次に本校にくることになっていた。学生間にはいろいろなドラマががあったようである。
赴任した年(76)に念願の3分校統合と大学院創設の決議が長岡分校の会議場でなされた。その冬に横田めぐみさんが行方不明になり、多くの学生の自宅が捜査された。繁華街の古町が近く、時々学生と散策した。統合は、81年であった。
78年には在外研究員の希望先であるStanford Uni.に初めて訪れた。Stanford大のあるのPalo Altへの旅行申請したが、事務に備え付けの地図には記載されていなくて、申請に苦労した(Stanfordに留学経験のあった同級生の大村元東大教授に行き方を教えてもらった)。Stanfordには、SFからバスで1時間程であり、一度は、直接にいったが、Dr.Mishel不在であり、後ほどリザーブをした。滞在中の並木慶応教授に世話になった。校舎前で院時代から交流のあったBanduraに会ったが、Mishelとの面会に急ぎ、会話が出来なかった(大学院時代から交流があったが、直接会話したのは2001年にバンク-バ-においてであった。名前は覚えていただいていた。現行の草稿を当時送ってもらいよく引用した)。統合での研究室設計では、Stanfordの教授室をコピーしたものである。L字型の研究室と演習室、個室の書庫を真似た。コンセントも、PC使用を考えて、机と同じ高さに設置した。喫煙のための換気扇設置、個室の冷房設置場所の確保(全体予算であまった余ったようであり、完成時に冷房機設置や高価な椅子が配布された)。
統合時に各種規定作成員、大学院設置準備委員に任命された。統合に際して定員削減(分校が教養部を担当していた)があり、心理は1名削除された(教育とで1名削減であったが、1名が転出欠員のために1名削減を強いられた)。大学院設置においては、大変不愉快なことがおきた。合同宿舎(河渡)に住んでいた事務官が上越の大学院設置準備室の事務官と転任したので、高田分校での代議員会時にご挨拶に行った。高田分校教官から上越に誰が移籍できるかに関心があった。T教授から間接的に移籍することを依頼されていたが、もう雪にはこりごりであったので断った。結局は10名弱の者しか移籍できずに、新潟に来た’特に教授連は、大学院教授として判断されていないために、彼らの救済を含めて大学院構想をしなくてはならなかった。統合後は彼らが学部長になり、大学院準備には大変消極的になった。統合前にほぼ案が出来上がっていたが、統合でまた一からやり直しであった。母校の教授から教授が前に在職していた大学への転出話があった。統合への意欲が大であったので断った(後日談ではその後の転出を計画して頂いた様で恐縮している。05年代に悩むことがなかったのにと悔やんでいる)。心理には1名、教育には3名の教授がいたが、大学院設置には心理と教育で5名必要であったので、心理に1名補充する必要に迫られた。42歳の私には教授昇格に早いとの判断が某教授連からなされていた。42歳で教授昇格をした者がいた(理科、社会、国語であるーその内一人は合教授として判定されなかった。他の分校からの教授が○号であったが、学部長の同窓であり、嫌っていたようである。学部長の同窓会会長とは、赴任後一緒に健康優良学校審査員として、全県内の学校視察と審査をしていた。審査委員長の医学部、歯学部教授と懇意になっていた。委員長も学部長と高校で同窓であり、長岡の教授(国文)への評価に不満を持っていた。学部長は私が情報を漏らしたと勘違いしていたようであり、不幸な最後を遂げている)。大学院設置申請締切日前に心理の教授を私が研究室の皆の前で電話し一晩で合意を得た。内山筑波教授である。内山教授とは父の後輩という事や指導教官との知己でありよく知っていたが、父の名を出さずに、数月前に開催された仲人のお茶大の教授の祝賀会に参列していたので、その話を通して自己紹介した。翌早朝に快諾の電話を受け、竹下教授とつくばに飛んだ。快諾に、むしろ学部長連は狼狽したようである。同窓であるから来るべきであると口説いていたようである(後日談。斉藤教授の後には、カナダのWinsor大学の小橋川、独協の波多野。国研の永野氏を候補にしたが、竹下氏に拒否され、川村氏を呼んできた。Child Developmentの編集員であり、APAでも活躍していた小橋川氏とは、既知であったので私費を使ってでもカナダに飛んで説得する心算であった)。予備審査では、心理はパスしたが、教育に失格者2名が出て、その補充に翻弄した。教育は結局、元東大の山内太郎教授と創価大学の熊谷教授を埋め、心理と教育学が整った(教育のこれらの先生への扱いはは非人道的であり、2年で東京に戻ってしまった)。予備審査では、学部の方針として発達心理領域の教官になってが、いつの間にか教育心理の教員にすり返られ、審査保留であった(最終時には発達領域になった)。
当時の歌代学部長は、高田に残りたかったようであるが、上越大学の審査にもれ、単身で赴任していた。大学院の最終審査前に、
延髄出血で、意識を失った(その後は知らないが、永久に植物人間になったようである。公式には、溢血と説明されているが、当時同じ事が歌手のフランク永井が同じ障害で患っていた。病欠で、直ぐに学部長室から私物を運びですのには驚いたし、文部省に報告をしなかったようである。理科教育の丸号教授は2名必須であり、1名が欠けたので理科教育は成立していなかったが、旨くやったようであるリ、それで理科では院生を意識的に取らなかった。後に学部長になった田中教授は博士を持っていたが丸号教授になれなかった)。人事面ではこのように大変不快であったが、この不快感は、ゼミ生との交流や85年に設立した全国の道徳性心理学者・実践者との交流、87年から参加したAME(道徳教育学会)での外国の道徳性心理学者との交流で癒された。ゼミ生諸氏との交流では、年次で異なるが、ボーリング大会、バトミント大会、研究室での鍋料理、研究室での誕生会、クリスマス会、自宅でのカラオケ会(その当時のビデオはBetaのために今は見れない。「人生色々」を熱唱した上州乙女)、我が家での雑魚寝(早朝に抜け出して、モデルのバイトをした年もある)、カラオケバー、卒業前の自宅での鍋料理、卒業式以後のホテルイタリア軒最上階でのコーヒランジでの飲食、ファミリーレストランでの終夜のトークと始発で越後線での帰宅など、多くの時間をゼミ生と過ごせたことは幸いであった。
五十嵐の心理学の研究室の設計は、78年に訪れたSanford大学の心理学者Mishelの研究室を真似た物である。L字型は広いほうでゼミをし、個室は書庫にと考えていたのであるが、ゼミの所は、ゼミ生の溜まりになり、個室に移ったこともある(旭町時代も、窓側が個室になり、ゼミ生が占拠していたこともあった。幸い、予算が余ったのか、心理学研究室にはクーラーが設置されていた)。
教職の教育心理学は、金曜日に、専任6名で担当した(統計の教官を除いて)所、2年度から大講義室で550名(別科を含む)の内,400名を担当する事になった。マスプロであった。残りの5名で100名を担当してことになる。マスで行い、次年度以降は、それをローテーションで行う事を期待したが、誰も協力してくれなかった。
同僚教官:新潟本校時代:斉藤先生(退職後仙台に戻り死去された)、仁平義明先生(東北大学文学部)
五十嵐時代:川村幹先生(国士館大学へ転出)、竹下由紀子先生(退職後新潟青陵大学へ)、内山喜久雄先生(退職後東京へ)、南風原先生(東京大学へ)、竹綱先生(学習院大学へ)、田中先生、斉藤俊一先生と大浦容子は現在新潟大学で奮闘しておられる。
         Flash of NU
07年正月にはGoogle Eaeathで、ゼミ生の所在地を訪問した。地区によっては、かなり詳しい地図があるが、一部ぼやけているのは残念であった。AME学会、日本教育心理学会の開催地を登録し、ツァーした。それぞれの地においてお会いした研究者や、不在で帰国を待っているであろうゼミ生の事が、走馬灯のように過ぎった。AMEや学会への参加が何時まで続くかは分らないが、体に注意し、さらに多くのマークをつけて行きたい。
YCU   コース別(ゼミ生以外も交流のある者を含んでいます)  
椎野智子   長女小学校入学 一男一女 横浜・中学校教員  
藤本麗芳(厖)   2男の母 愛知・西尾(商学部出身 上海交通大学卒) 教務委員会委員長を務めている際に、外国人交流会での旅で知り合った。彼女が、中国で学士を取得しているので、1年次への入学ではなく、3年次での編入または院生になるべきであると説得した結果、横国の大学院に進学した。中国には帰らず、日本人の夫君と愛知県に滞在している。
吉元洪   立命館大学教授  
西川義孝   神奈川小学校勤務 横浜 教員 YCUの社会出身で、教職を目指し学士入学をしてきた。遂に目的を達した。
長谷川真里   横浜市立大学准教授 YCUの心理出身で、教育心理を理解したくて学士入学をしてきた。お茶の水女子大大学院に進学し学位取得。レーマを更に政治学的、哲学的に考察すると実りあるものになる。
居崎時枝     Knight(UK)で学位取得 大垣女子短大に就職
西村雪衣(酒井)   ソウルから日本へ UCCに就職した。アメリカのホテルのコーヒーサーバーを更に研究すると良い。
櫨 茹   夫君申林氏 上海で企業 2児の母 上海出身 千葉で夫 申と企業。娘は北京音楽大院生
山口尚子   大学カウンセングセンター勤務 横浜 子育て奮闘中 YCUの心理出身で、大学院進学の指導をした。同級の橋口君(当時東京家政大学)に指導を依頼。
肖意戒   上海師範学校出身 上海在住 上海師範学校を卒業後、語学研修後、当時の学長の紹介で。研究生になる。熱心で、有望であったが、挫折して帰国。放送大学の中国での収録や海洋シンポジウムで協力してもらった。母は校長、父は上海交通局勤務であった。
樋口由恵(長島)   横浜在住1年  横浜市の社会体育施設に勤務。
高橋こずえ   横浜 県教育委員会勤務  
長島由恵   横浜市の体育施設勤務  
篠原理都子   鎌倉 M了後NPO勤務   
今井福司   白百合大学就任 東京大学大学院DCへ進学 2013年学位取得 
真田美沙   佐賀に戻り就職 SAGA出身。父親が亡父と、母親もまた亡母との因縁があった。つくば大学MCへ進学
加藤慧子   第二子出産予定 父親、高校の教師とは因縁があった。遂に、多摩川を越えることができた。男児出産
清水嘉子 院生 3男の母  静岡の私学の修士を修了し(指導教官は中学校時代から知っていた)、後期課程に進級した。男児3名の親で、度量して育児ストレスに関する論文で学位取得市、単身で長野に赴任している。助産婦の免許を持っている野で、出産を支援してもらえるが、諸氏には遠隔地と脱○○年齢を過ぎようとしているので、あまり役立ちそうもない。母子看護専門長野 学位取得(横浜市立大学) 静岡県立大学講師から長野県立看護大学教授へ昇進移動11月ソウルで開催された学会で発表優良賞を授与された
柳生幸枝 夫君 賢氏 家族でヤッケ、カヌーを満喫 雅刀君  M修了後Career Counselor.関連企業に就職。HoganのPersonality Inventoryについて研究。研究意欲は強い。
道譯加寿子 横須賀   
YCU:90年後期に赴任した。隔週の講義を担当し、91年に横須賀の衣笠に居を構えた。大学では、大学院(修士)構想中であったが、何故か一部の者は他のコースに入っていたが、書類提出を求められたがメンバーに入れてもらえなかった。修士発足2年後に博士課程設置で、所属していた人間科学コースは除外されていたので、設置を求めた結果博士課程の申請し、○号なら、国際関係コースのメンバーとして入れてもらうことになった。除外されていた所属の教授5名に働きかけ申請を勧めた。結果教育コースの3名のみが後期課程の○号になった(一人は辞退、一人は博士論文作成を指導できない号教授)。審査結果について各自問い合わせることであったが、新潟大学の苦い経験もあり、また学部長らの仕打ちにも怒っていたので、問い合わせることを控えていたが、その後1ヶ月後に評議員教員が遂に報告に来た。修士で私を指名した受験者は今まで6名であった。留学生は有望であったが、面接教員の評価が低く、落ちてしまった。合格した者でも、他の教官に失望し辞退した者の居る。論文が主・副査体制であるので、副査になる者に失望し、辞退した者にも理がある。博士課程志望では、2名いたが、一人は辞退し、一人は副査候補者からの偏見で苦労した。その頃大学院進学志望者に対して論文指導を開始した(お茶大、東京家政、英国留学)。それ以前には、少数であったので個人指導であり、お茶大には落ちたが、東大、つくばに受かり、今公立大学の教員をしている。その後某大学院の指導教官が在外のために指導できなくなったので、そのゼミ生が指導を求めてきた。月1回の研究会を開催することになった(現在では、市大、お茶大、早稲田、法政、東女、跡見などの院生と私学教員、現職教員ーこの6年で2名の博士取得、7名の修士取得)。最終年には、お茶大とつくばに院生を送ることができた。横市でも良いが、同一専攻院生が少数、専門も必ずしも評価されていないので、励みにもならないし、また研究指導のできない。一人の学生の親は私の初任校の卒業生であり、他は亡父が指導した学生の子どもであり、最終年度においては大変奇遇であった。院志望ということで、2年次から隔週で英語の心理学を読んでいた。退職で、購入したがもう読了し必要がない書籍を研究室の前に展示して学生に提供した。政治、経済、、歴史、社会学、哲学、倫理、数学、物理、生化学などの書籍である。私の専門を熟知していない院生は、なぜとそのような多領域の書を所蔵しているのか聞いてきたのには驚いた。専門にしている道徳性は、社会、経済、文化と密接の関係しているからであると説明すると納得し,もっと前に知りたかったと嘆いていたのが印象的である。3月30日にやっと研究室の書籍を移転させた。かって居た大学が変節していくのを見るにつけ不安のみで希望や夢がない。残った教員と卒業生には、職場と母校が真に誇れるよう努力されんことを期待するのみである。勿論、OB教員としても援助をしたい。教育コース所属の教員は、木下、朝比奈両氏は博士課程○号であり、他は哲学のみである。、優秀な教員と過ごせたことは光栄であった。朝比奈氏ともに、放送大学客員教授になった(他に転出した商学部佐藤氏がラジオ番組担当ー分担として一部に出演している者もいる。出演売り込みは激しいので、私の場合隠密裏に進めた)。その際のVTRは、講義終了後も売れている(多分そのような観点での道徳教育の考察は、西欧で2010年頃、日本では2020年頃に盛んに成るであろう)。その後大学院設置(教育開発コース)教員として12名に選ばれたのも光栄であった(心理学者は私を含め3名ー波多野元慶応大学と稲垣千葉大学教授ーで、他は東大、京大、阪大などの教育学者)。YCU在任中の実績:日本教育心理学会総会での発表、同総会での自主シンポ主催、AMEでの発表、韓国での発表、国際セミナーの開催(NYUのHoffman,HarvardのSelman,FIUのKurtines,BallのLapsley,TorontoのBydo、光州大学李各博士)、日本道徳性心理学研究会の主催、「日本道徳性心理学研究」の編集、SIG月例研究会開催である。(未完)
YCU最後の卒業式
放送大学   
佐藤潤   岩手・盛岡で夫婦で奮闘中  
森美香   東京 放大に再入学  
AIR:1999年から前岡山大学木原孝博教授と共同でTVでの「道徳教育」を担当した(15回で8回の単独収録と1回の合同収録である)。学期での指導問題の添削で、質問をEmailで受けるようにした。講義では、TVの特徴を生かすべく諸外国の道徳教育の実際について盛り込んだ。タイ、中国、アメリカ、カナダでの道徳の指導の収録をした。道徳性発達を観点に考え、学校教育だけでなく、地域、社会での道徳的環境での発達のあり方について論じたが、残念ながら4年で終了した。受講者は、1期で500名程度であり、SIGに参加していた院生諸君に採点を依頼した。幸い2002年から開設された大学院では、設立準備教官として指名され、単独で「道徳性形成論ー新しい価値の創造」(ラジオ)を担当することになった。構築したMPECに基づき講義を構成した。一部、道徳性発達・教育の意欲的な戸田(大阪教育大学)、小林(玉川大学)、明田(上智大学)氏に担当をしてもらった。受講者は学期で、変動があるが300名ほどである。中間の指導添削の際に、Emailによる助言をしている。
 東京未来大学
東京未来大学には、高校時に不適応で挫折した者が多くいた。しかし、挫折は、学生個人の問題だけでなく、学習環境の不全にあると考え、設立時から、教員有志(大学経営方針に同意できなく、監視期間内に転出した専門では優秀なものであった)とともに、大学院進学希望者の教科指導をした。初年度は、所属以外の学生であったが、心理学的な側面を指導した。在職中および退職後には近くの珈琲店で指導した。 その結果、毎年大学院に一名進学させることが出来た(上越教育大学教育研究科)。
この時は、彼/女らの潜在的能力の高さに焦点をあたて指導した(当時の学長自身、公の席で、底辺大学であると言う始末。しかし彼らの入学した高校の偏差値を受験塾の偏差値表を見ると、必ずしも大学の偏差値と対応していない、いわゆるアンダーアチーバーである)。
教育は、
幼児・児童・生徒・学生、発達する者の将来に向けての營為であることを認識すべきである。
就任前には、大学院設置を要請したが、就任した者の多くが、年齢は高いが、大学院設置時の教員審査基準を達していないことや大学教育経験未熟で、母体の専門学校的な感覚で経営、教育しているのでその基準を満たすことができなかった。大学設置基準法からの逸脱が目立っているのが残念。それは、関係した者ものでけでなく、卒業した者への冒涜でもある。校舎が、ドラマ「金八先生」の舞台になった学校の廃校を利用したところである。作者の小山内女子の「腐った柿が、他の物を腐らせる」とならないように願うだけであるが、その方向に、自己暗示的に向かっているようであるのが危惧される。
 川口自主中学校
 2011年11月から参加。火、金曜日の6時30分から8時30分まで。
  国籍   
小川大  日本   国語を主に教えている。家庭の事情で十分な義務教育を受けられなっかった。年次で、修了し、作業場で働いている。2012年8月から
 李哲 中国   中国温州医学大学出身生化学でさらに日本の医学研究科の入学希望。2013年5月から
 千一力  中国  ハルピン大学ロシア語科出身。夏目漱石の「こころ」の購読指導している。2013年8月から。
 バンバイア
 2012年9月から参加。週一回、木曜日1時から4時まで。